2006/10/07 21:12
第1ページ『姑獲鳥の夏』
これから何回かは京極夏彦氏の京極堂シリーズについて書いていこうと思っています。『姑獲鳥の夏』から最新刊『邪魅の雫』まで、おそらく順番に書いていくと思います。
さて、実の所日下部(筆者のこと)はこの『姑獲鳥の夏』が一番好きだったりします。まだそれ程――規格外に――ページが厚かったりしないし、二作目の『魍魎のハコ(漢字が出ません)』以降定番となるフラクタルな構造もそれほど顕著には出ていません。しかし、その分シンプルで纏まりの良い仕上がりになっているのではないでしょうか。つまり、見方によっては最も洗練されている、と言えます。
この『姑獲鳥の夏』では、医学と憑物筋が、世界観構築の際の重要な知識的背景となっています。どちらも非常に“おどろおどろしい”(京極氏の小説を評するのに最も相応しい言葉だと思います)イメージを喚起するのに丁度いい題材です。そして、これら二つが、これから続いてゆく京極堂シリーズのための基礎知識を読者に提供する上で最も相応しい題材でもあるのでしょう。
京極氏が参考文献に挙げている小松和彦氏の『憑霊信仰論』や、同著者の『悪霊論』の中でも度々述べられていますが、「受け入れ難い現実――非日常」を、受け入れやすい形に解体する特別な役割を持つシャーマンは、現在から遡り過去に何らかの――御祓いを受ける人間たちが――納得できる物語を作り上げます。これは、まさに陰陽師中禅寺秋彦が小説中で演じる役割そのものです。中禅寺秋彦は、ミステリ界では非常に奇抜で新しい種類の探偵ではあるでしょう。しかし、彼は日本のシャーマニズムの正統な継承者でもあるのです。つまり、「憑物落し」は京極氏の独創ではなく、シャーマニズムの伝統から見れば完全な正統派と言えるでしょう。だからと言って、日下部はこの作品の価値を低く見るつもりはまったくありません。ただ、京極氏の作品が、それだけ民族社会、妖怪、シャーマニズムなどの事実に則った限りなく事実に近い虚構であるのだと言いたいのです。この日常を離れたリアルが、京極堂シリーズの魅力の一つであると、日下部は思っているのです。
ところで、この京極堂シリーズ。講談社ノベルスで出た時には『姑獲鳥の夏』が「ミステリ・ルネッサンス」。『魍魎のハコ』が「超絶のミステリ」。『狂骨の夢』が「本格小説」。『鉄鼠の檻』が「小説」。そして、『絡新婦(じょろうぐも)の理』以降何もないという風に、背表紙の謳い文句が変わっていった訳ですが、これはつまりは今日極道シリーズの性質に合わせて――というより謳い文句をつけていた人がこのシリーズの性質を“正しく”認識していったことに由来するのでしょう。『姑獲鳥の夏』では、密室殺人(?)というミステリの王道的謎があり、そのトリックも前代未聞のものだったため、「ミステリ・ルネッサンス」という謳い文句もピッタリくるものでした。二作目の『魍魎のハコ』もまた、周囲の人間が見ている目の前で少女が消えるという密室誘拐事件が発生しますから、「超絶のミステリ」と言う風にミステリの名を冠してあるのもある程度は頷けます。ある程度は、というのは、このトリックは必ずしも本格ミステリファンを納得させるトリックではないだろうからです。三作目『狂骨の夢』では、密室殺人のようなミステリの王道的謎は鳴りを潜め、むしろ怪談や超常現象(この言葉は中禅寺秋彦は嫌うでしょうが)に近い不可思議現象の謎が前面に出てきます。四作目『鉄鼠の檻』は、連続殺人は起きてもミステリ的トリックは全く存在しません。五作目『絡新婦の理』までくると、もはやミステリや、本格などといったラベルでカテゴライズすることが無意味だと判断したのでしょう。背表紙の謳い文句は消えてしまいます。
ここで書いた事は、あくまで筆者の感想のようなものなので、謳い文句についての解釈も全く間違っている可能性もあります。
それでは、今日はこの辺りで終わりにして、次回は『魍魎のハコ』について書くと思います。
これから何回かは京極夏彦氏の京極堂シリーズについて書いていこうと思っています。『姑獲鳥の夏』から最新刊『邪魅の雫』まで、おそらく順番に書いていくと思います。
さて、実の所日下部(筆者のこと)はこの『姑獲鳥の夏』が一番好きだったりします。まだそれ程――規格外に――ページが厚かったりしないし、二作目の『魍魎のハコ(漢字が出ません)』以降定番となるフラクタルな構造もそれほど顕著には出ていません。しかし、その分シンプルで纏まりの良い仕上がりになっているのではないでしょうか。つまり、見方によっては最も洗練されている、と言えます。
この『姑獲鳥の夏』では、医学と憑物筋が、世界観構築の際の重要な知識的背景となっています。どちらも非常に“おどろおどろしい”(京極氏の小説を評するのに最も相応しい言葉だと思います)イメージを喚起するのに丁度いい題材です。そして、これら二つが、これから続いてゆく京極堂シリーズのための基礎知識を読者に提供する上で最も相応しい題材でもあるのでしょう。
京極氏が参考文献に挙げている小松和彦氏の『憑霊信仰論』や、同著者の『悪霊論』の中でも度々述べられていますが、「受け入れ難い現実――非日常」を、受け入れやすい形に解体する特別な役割を持つシャーマンは、現在から遡り過去に何らかの――御祓いを受ける人間たちが――納得できる物語を作り上げます。これは、まさに陰陽師中禅寺秋彦が小説中で演じる役割そのものです。中禅寺秋彦は、ミステリ界では非常に奇抜で新しい種類の探偵ではあるでしょう。しかし、彼は日本のシャーマニズムの正統な継承者でもあるのです。つまり、「憑物落し」は京極氏の独創ではなく、シャーマニズムの伝統から見れば完全な正統派と言えるでしょう。だからと言って、日下部はこの作品の価値を低く見るつもりはまったくありません。ただ、京極氏の作品が、それだけ民族社会、妖怪、シャーマニズムなどの事実に則った限りなく事実に近い虚構であるのだと言いたいのです。この日常を離れたリアルが、京極堂シリーズの魅力の一つであると、日下部は思っているのです。
ところで、この京極堂シリーズ。講談社ノベルスで出た時には『姑獲鳥の夏』が「ミステリ・ルネッサンス」。『魍魎のハコ』が「超絶のミステリ」。『狂骨の夢』が「本格小説」。『鉄鼠の檻』が「小説」。そして、『絡新婦(じょろうぐも)の理』以降何もないという風に、背表紙の謳い文句が変わっていった訳ですが、これはつまりは今日極道シリーズの性質に合わせて――というより謳い文句をつけていた人がこのシリーズの性質を“正しく”認識していったことに由来するのでしょう。『姑獲鳥の夏』では、密室殺人(?)というミステリの王道的謎があり、そのトリックも前代未聞のものだったため、「ミステリ・ルネッサンス」という謳い文句もピッタリくるものでした。二作目の『魍魎のハコ』もまた、周囲の人間が見ている目の前で少女が消えるという密室誘拐事件が発生しますから、「超絶のミステリ」と言う風にミステリの名を冠してあるのもある程度は頷けます。ある程度は、というのは、このトリックは必ずしも本格ミステリファンを納得させるトリックではないだろうからです。三作目『狂骨の夢』では、密室殺人のようなミステリの王道的謎は鳴りを潜め、むしろ怪談や超常現象(この言葉は中禅寺秋彦は嫌うでしょうが)に近い不可思議現象の謎が前面に出てきます。四作目『鉄鼠の檻』は、連続殺人は起きてもミステリ的トリックは全く存在しません。五作目『絡新婦の理』までくると、もはやミステリや、本格などといったラベルでカテゴライズすることが無意味だと判断したのでしょう。背表紙の謳い文句は消えてしまいます。
ここで書いた事は、あくまで筆者の感想のようなものなので、謳い文句についての解釈も全く間違っている可能性もあります。
それでは、今日はこの辺りで終わりにして、次回は『魍魎のハコ』について書くと思います。


