下弦の月――For The Dying Moon――

日々胸のうちで生まれる「ざっそう」の墓場(「ざっそう」は、「雑草」、「雑想」、どちらでも。価値は大して変わらない)

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なんだろうね、これは。びっくりだ

2009/09/22 19:02
 今までと訪問者数は大して変わらないのに、急に拍手が増えた。

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 評価してもらえるのは嬉しいが、急に増えたので最初見た時は驚いた。言葉についての話とか、あまり面白くなさそうな記事にも拍手があった。あんな長い文章を読んでくれてありがとうございます。

 ただ、この場を借りて訂正しておきたいことが一つ。自分でも読み直してみたが、人類の病気という記事で言葉の恣意性について書いた以下の部分。

つまり、対象と記号の間には結びつけられる必然性なんて存在しないわけだ。これだけでも、言葉の恣意性は明らかだ。



 というところだが、これは間違いだ。言葉の恣意性があるのは、例えば「馬」という概念が「うま」という音で表現されることに必然性がないという部分であり、この記事中で使っている言葉でいえば「対象」と「解釈項」との間にあるのではない。このあたりは誤解を招きそうな表現だったので訂正しておく。後、「言葉は記号ではない」です。読み直してみると、本当に粗が目立つ。わざわざ記号論の用語を引っぱってきたのに、それを正確に使っていない。

 なにが一番恥ずかしいって、他人を批判していて自分が実は間違っていたことに気づくときほど恥ずかしいことはない。幸いにも同記事は特定個人や集団を名指して批判しているというわけでもないが、それだけに人類全体に向けて緩く批判の目を向けている。つまり、人類全体に向けて赤っ恥をかいたわけだ。
 これで僕が東大教授だったりしたら困ったことになっただろうが、そんなことはないので、嘘をつき通すよりもホーキングの「まちがったことを文章のかたちで認めるほうがずっといいし、混乱を引き起こさなくてすむのではなかろうか」という言葉に倣いさっさと認めておく。間違いは他人に指摘されると意固地になるが、先手を打って自分で認めてしまえば、それがかえって誇りになる。
 これからも誰かに指摘される前に自分で間違えは潰していこうと思う。小者だから他人に言われると認めにくくなるのだ。
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吐き気を催す人々

2009/09/22 18:32

戸籍制度見直しへ議連 民主有志
戸籍制度の廃止をめざす議員連盟が、民主党の有志議員約30人により10月に発足する
ことがわかった。名称は「戸籍法を考える議員連盟(仮称)」で、呼びかけ人は川上
義博氏、松本龍氏ら。個人を単位とした登録制度をつくるため、戸籍法の廃止も含む
見直しを提案している。
東京都議会議員土屋たかゆき氏のブログ今日の”つっちー”より



「国民の生活が第一」というキャッチコピーは一体どこが使っていたんだっけ? この不景気に、政権を取って最初に検討をはじめたのが「外国人地方参政権付与」、「人権擁護法案」、「戸籍制度の見直し」。どれも国の形に関わるものではあるが、不況に喘ぐ国民の生活を守るためのものとは思えない。

このことで、私が、民主の本音が「マニフェストに書いていない」と論文発表したことが正当化される。政調会は、選挙はマニフェストで闘うと言っていた。確かにマニフェストで闘ったが、その後の政権では政策集やそれ以外の左翼的政策がオンパレード。



 要は詐欺である。
 一から十まで嘘まみれの詐欺師集団である。
 はっきり言って民主党には詐欺以外にはなにもない。政治資金でマンションを買い漁る小沢一郎と故人献金で後ろめたい金を隠している鳩山由紀夫、他にもマルチ商法や詐欺と縁の深い議員が上に行くほど増えていく。
 誰だ? こんな奴らを支持したのは?
 僕は民主党というのは日本人の汚ない部分が集まったゴミ溜めだと思っている。こんな政党が政権党になったのは日本の恥であり災厄だと思っている。おそらくマスコミは彼らを庇うだろう。マスコミも日本の汚物の溜まり場だからだ。
 この吐き気がする連中を二度と這い上がることができないように葬り去ること。それがこの災難を利用してできる唯一の善きことだろう。表に出れば、民主党に入れた人々も彼らの正体に否が応にも気づかざるを得ないからだ。
 せめてそのくらいのことは、期待してもいいだろう。



民主党は日本経済を粉砕する

2009/09/08 18:23
 民主党について書いた二つの記事に、それぞれ一つ拍手がついていた。この記事を読んでくれているかはわからないが、評価してくださってありがとうございます。

 結局民主党政権が成立したわけだが、国民はせっかく自国の経済が非常に有利な状態にあったのに、わざわざ自分で自分を奈落の底に叩き落としたとしか思えない。
 民主党の政策は緊縮財政で、「国債はこれ以上発行しない」と言っている。民主党は反自民を掲げて政権交代を果たしたわけだが、そのやり方は小泉時代の自民党そのものだ。むしろ自民党の方が、今では小泉時代の政策を修正しているわけだから、経済政策を見ると民主こそまさに自民であり、自民は反自民であるというややこしい構図になっている。

 民主党はコンクリートじゃなくて人にお金を使うんだと言う人がいるかもしれないが、そもそもコンクリートに使ったお金も最終的には人の手に渡るんですよ? と言いたい。コンクリートはお金を持てないし、誰かの支出は必ず誰かの収入になる。国から民間にお金が渡り、その民間へ渡ったお金が使われることでさらにまた民間の別の誰かの収入になり、それがまた……(以下略)。忘れているのか気づいていないのか知らないが、お金は消滅しないのである。
 日本は高度成長期には公共事業をどんどんやって経済成長をしてきた。ただ、公共事業はやればやるほど段々効果が薄くなってくる。公共事業を減らしたのは、効果が薄れてきたからであり、公共事業というもの自体が経済成長に貢献しないと判断されたわけではない。
 しかし、今では日本人は公共事業を単純に悪と判断する条件付けがなされているように見える。民主党もまるっきりそういう思考回路だ。

 しかし、考えてみてほしい。景気が低迷して民間で需要がつくれない場合、国家がお金を出して需要を支えないで、一体誰が支えるというのだろう?
 GDPには公共事業による政府の消費や、公務員への給与なども含まれている。つまり、公共事業を行わず、公務員を削減するということは、そのままGDPを削るということを意味する。
 政府がお金を使うことを悪だと思っている人たちには、なら誰が代わりに不況における需要や雇用の低下から国民を救えるのか教えてほしい。
 民主党は確実に、せっかく麻生政権が回復への道筋をつけた経済を台無しにする。
 そしてその代わりに日本が得るのは「外国人参政権」や「中国からの移民」などの売国法である。

 国民は民主党に票を入れることで「だらしない」自民党にお灸をすえたつもりかもしれないが、そんな馬鹿げた考えで票を入れて、お灸をすえられるのは結局国民なのである。
 民主党が日本に対してできる最高の貢献は、「さっさと潰れること」だけだ。



全体主義国家も景気低迷も嫌なので動画を宣伝

2009/07/17 19:34
 民主党の問題点を全て語ってくれている。



人類の病気

2009/07/15 19:48
 現代の人間は皆同じ病にかかっている。それは言葉の病だ。殆どの人間が言霊に踊らされて現実を見ない。現実との接触が不可能になっている、なんて言えば、少しポストモダンっぽくもある。
 言葉が軽んじていながら言葉に踊らされている。言葉について真剣に考えることもなく、歪んだ言霊に踊らされて真実を見る目を塞がれてしまっている。その結果自分自身でさえもよくわからない他人になってしまった。人間は過去や未来から引き離され、もはや他人を理解もしない。ただ現在の自分独り(それさえも見知らぬ他人のようによそよそしい)。
 言葉の病気は人間の根を腐らせる最も危険な病気だ。言葉が狂ってしまったなら、一体何者が正常でいられるだろう。

 言葉は現実と一対一で対応しているわけではない。記号論的に言えば、記号(石や鉛筆などの具体的な物、あるいは秩序といった抽象概念の名前)、解釈項(記号が意味するもの、石なら硬くて重くてその辺に転がっている物、秩序なら物事が規則正しく整然としている様とでもいう具合)、そして対象(つまり石と呼ばれている物そのもの、抽象概念の場合、「そのもの」はイデア界でも探さなければどこにもない)の三つに分けて考えることができる。当然ながら、記号は対象そのものではないし、解釈項も対象そのものではない。
 指と月に例えるなら、言葉は指で、月が言葉の意味するものという風に考えることもできるが、指が正しく月を指し示すとは限らない。それに、人間というのは愚かなもので、最初は指が示す月の方に目を向けていても、やがて本来重要ではないはずの指にばかり目を向けるようになったりもする。そういう人間が存外学者などに多いのは、おそらく現実よりも言葉とばかり向きあっている者が多いせいだろう。学問をしなくても常識は持てるが、常識というかコモンセンスというか、現実と言葉のバランス感覚のようなものがなければ学問が真理に達することなんてあり得ない。常識は学問に依存しないが、学問は常識に依存する、ということだ。

 そもそも本来現実というのは、豆腐のように境界線もなく、人の意思次第でどのようにでも切り分けられるような存在でしかない。僕らが住んでいる世界というのは言葉によって予め切り分けられた豆腐のことなのだ。言語こそが世界、というのも、言い過ぎではあるがあながち嘘でもない。
 ソシュールという言語学者の理論を説明する例として、犬、野犬、山犬、狼という言葉の話がわかりやすい(これは丸山圭三郎という人が『ソシュールの思想』という本で書いていることだ)。
 犬、野犬、山犬、狼という言葉は、まぁ似たような動物のことを指している言葉という意味で近い言葉だ。今では平安貴族みたいに「あなや」なんて叫ぶ人間はいないように、言葉は時代と共に変化する。上の四つの言葉のうち、山犬という言葉が「あなや」とか「チョベリバ」などのように死んでしまったとしよう(平安貴族は死滅したが、コギャルも死滅したのかな?)。しかし今まで山犬と呼ばれていた動物は別に死滅したわけではない(逆に対象が死んでしまっても、必ずしも言葉は死なない。だからこそ僕らは死者の記憶を持つことができるのだ)。
 では山犬という言葉の死後、人々は元「山犬」と出会ってそれをなんと呼ぶか。新しい名前をつくるか、それとも呼ぶに呼べずに口籠るか。まぁ、普通に「野犬」とか「犬」と呼ぶことだろう。つまり、今まで山犬という言葉がカバーしていた部分を、他の意味的に近い言葉がそのカバー範囲を広げて補うわけだ。他にも、愛というものをラブと言ったりアモーレと言ったり、挨拶でも「こんにちは」と言ったり「ハロー」や「ボンジョルノ」と言ったり、言語が違えば、記号もまるで違うものになってしまう。つまり、対象と記号の間には結びつけられる必然性なんて存在しないわけだ。これだけでも、言葉の恣意性は明らかだ。

 言葉のさらにタチが悪くまた有益なところは、豆腐を単に切り分けるだけでなく、そこに醤油をかけたり葱をのせたりもするというところだ。あらゆるものには意味がある。そして意味を与えているのは言葉なのだ。人の価値観や認識の体系は、言語の体系とほぼ同じことだ。
 ところで、言語が違っても、人間には世界中で共有される価値観とか意味付けがある。それだってまったく同じわけでもないが、とにかく共有される価値というものはある。これは、多分人間が肉体を持って生まれた生物としての条件が、ある程度までものの見方というものを限定しているからだろう。簡単に言えば、食べられるものの方が食べられないものよりも、人間にとって重要で、目にもつきやすい、とかそんな感じだ。人間といえど文化は違えど結局やることは同じだ。食料を確保し、外敵から身を守りながら子孫を残し種を繁栄させていく。この土台がなければ人間がどんな高尚な思想を持ったって生き残れない。
 この生物としての条件による限定は、重要ではあるがそれで人類が皆同じだとか言えるようなものでもない。人間の脳を見ればわかるが、生きていくのに必要な原始的な脳は、あんまり必要のなさそうな大きな脳にすっぽり覆われてしまっている。要するに、重要ではあるが全てではない、ということだ。文化的な差異を人類の共通性で越えられると考える人は、人間の人間としての意味とか積み重ねを完全に否定することになる。こういう人間が理想主義者とか博愛主義者とかに多いので、この手の人達を僕はまるで信用できない。この手の人間は言葉の病気の重篤患者だからだ。

 人は言葉によって世界を分節し、意味を与える。この、人が言葉にのせて世界に与える意味が過剰になる時。それが言葉の病気が発症する時だ。言葉は言葉だけで完結する輪を形成し、人々を現実から引き離してしまう。動くのは言葉だけで、人の心はその強すぎるイメージを焼きつけられてただその言葉を自分の口でも言ってみるだけのオウムになってしまう。それがつまるところ「大衆」というものだ。だから、その本質からして、大衆というのはそもそも狂的なところがある。
 氾濫する言葉に抗って自分の言葉を持つことができる人間というのは本当に少ない。そしてそういう人間の言葉は、確かに特別なものであり真剣に耳を傾ける人にとって意義のあるものなのだけど、大衆の間で氾濫し彼らの口を借りて反響する過剰な言葉と対決するにはあまりにも脆弱だ。
 結果として、現実との接触を失い言葉の輪に閉じ込められた大衆が、大した真剣さもなしに(現実から切り離されて、どんな真剣さを人は保てるだろう)狂的な行動に出る。「精神錯乱は個人の場合には稀なことである。−−だが、団体、党派、民族、時代などになると、それが普通なのであ」(ニーチェ)というわけだ。
 一人で考えるよりも大勢で考えた方が良案が浮かぶと僕らは考えるけれど、ただのオウムになってしまえばかえって数が多い方が危険だ。特に、今のように情報伝達の技術が発達した時代には。もし人類を滅ぼすものがあるとすれば、それは陳腐化したマスメディアだろう。これが間違いなく言葉の病気を蔓延させる媒介者となる。

「言葉だけが大切で、残りはむだ話だ」なんて言う人もいるくらいで、まさに人間の世界の殆どは言葉に支配されているのだ。奴隷になるのに意志なんて必要ないが、主人になるには主たらんとする意志がいる。言葉の重要性を自覚しないなら、人はずっと言葉の奴隷だろう。それで時に(あるいは常に?)狂気にかられ、真剣さのまるでない初まり方をする悲劇を幾度となく演じることになり、それを人類は後生大事に歴史として抱えていくことになるだろう。
 人間はいつまでも猿の延長線上にはいられない。石槍や弓で動物を狩っていた頃とは違うのだ。2000年前の人間が地球を滅ぼそうとどんなに強く決意したってそんなことできはしなかったが、今の人類には容易くそれができる。徒党を組めば数万、数百万に達したりもするし、陳腐な言葉でもメディアを通せば何百万何千万という人の所まで届いてしまう。いい加減、自覚を持たなければならない、ということだろう。神様を殺して神様の所から何もかも盗みだしてしまった盗人は、結局身に余る重荷を背負わなければならなくなったわけだ。言葉の病気から開放され、言葉の奴隷から言葉の主人に変わらなければならない。
 主人になるのは、場合によっては奴隷でいるよりもずっと大変なことだ。でも、下らない悲劇を繰り返して歴史書を愚行でぶ厚くするよりは、ずっといいと思うよ。



言霊解体 「差別」

2009/07/09 21:05
差別や人権とはまったく関係のない本からの例だが、藤平光一という合気道の先生がアメリカで合気道を教えていた時の話だ。藤平氏が男の弟子ばかりを投げるので、ある女性がこう言った。
「なぜあなたは女も投げないんだ? 男女は同等だろう」
 それに対して藤平氏はこう答える。
「女を投げ飛ばしたくないからだ」
男を投げるのなら、相手が女でも投げるのは当たり前ということになる。それが同等だと言うのなら、私としてはどうしようもない。正直言って、アメリカ流の男女平等には賛成しかねた。
 そしてこれに対して、藤平氏は合気道の男女平等の考えについて語る。
 合気道は半身の構えをとる。つまり、片方の足が前へ出るときには、もう一方の足が控える状態になる。これこそが合気道における男女平等の精神なのである。

 要は共同で何事かを成し遂げようというときには、一方が主になれば、必ずもう一方は控えるのが理だということだ。
 だから、男は女がやりやすいようにやればいいし、女も男がやりやすいようにやればいい。これでこそ男女平等なのである。



 僕はこれが男女平等の一番正しい意味だと思う。素直に考えれば、男と女は同じ人間ではあるがやはり違うものなのだ。どちらが主になるかはケースバイケースで結構だが、まったく同じ様に扱おうとすれば人間の自然な感じ方から離れることになる。
 脱線するが、そもそもアメリカで流布している思想なんものは大体がプラグマティストの二枚舌だ。歴史がなくて理念しかないのに、その理念さえも実利に席を譲るのがアメリカという国だ。世界中に資本主義とグローバリズムを広めていったクセに今は保護主義に走り銀行や自動車会社を国有化してまるで社会主義国家のようになっていることからも、それはよくわかる。だからアメリカから流れてきた概念や言葉を鵜呑みにすると本家のアメリカに裏切られてバカを見ることになる。

 男を基準にすれば、女とは「色々と足りない所がある男」に過ぎなくなる。逆に女を基準にすれば、男も「色々と足りない所がある女」に過ぎない。お互い違うものなのだから、当然だ。世間で言われるような男女平等とは、だから「平等という名の差別」になりかねない。しかもこの場合、差別されている側も「自分たちは平等だ」と思ってしまっているから、是正されにくい。つまり、固定化され、制度として認められた差別となってしまう。
 歴史上世界中にあった奴隷制やカースト制のような、現代では明確に差別とされている制度も、この「制度として認められた差別」といえる。これは差別する方もされる方も、それを当然のことと思っているから差別と認識されず、したがって問題にもならない。
「差別」という言葉がなければ、差別は存在しない。だから、差別の問題は多くの場合、判断に慎重さを要求する。不用意に使ってしまった「差別」という言葉のせいで、本来ならなにもなかった場所に亀裂を入れ、差別を生み出してしまうことにもなりかねないからだ。
「差別」という言葉は、ある差異の認識について修正を要求するためにある言葉である。決して、なんらかの事実を表す言葉ではない(差別と区別の境界線は、時代と場所によっていとも簡単に変わってしまう)。そして「差別」という言葉が使われるべきか否かを判断する基準は、あくまで実態に即した人間による総合的判断によるしかない。
「差別」という言葉の奴隷になる者は、このことが理解できず、どこかに「差別」という客観的実在があると思って目を凝らしている。




残るものと意味あるもの

2009/07/08 20:01
 残るのは、いつも結果だけ。過程は記憶のなかにしかない。でも、結果とはなんだろう? 結局は「死」に帰結する結果のみを志向することの意味は、どれほどのものだろう?



握手するなら……

2009/07/08 19:58
 人間と握手したってしょうがない。かわいくないし、汚いし、その上肉球もないから。
 ペンギンとも握手したってしょうがない、かわいいけど、肉球がないから。
 握手するのは猫とだけでいい。かわいい上に、肉球があるから。



悪魔を探しても見つからない

2009/07/08 19:53
 自分たちが悪魔だと知らない者たちが、他に悪魔がいると騒いで鏡を見ようとしない。彼らはいつまでも悪魔を探し続ける。自分たちを天使だと信じながら。



「魂の柔らかい部分」

2009/07/07 21:15


 人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていきます。そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。原理原則の命じるままに動くようになる。そのほうが楽だからです。迷うこともないし、傷つくこともなくなる。彼らは魂をシステムに移譲してしまうわけです。
 村上春樹『僕はなぜエルサレムに行ったのか』 文藝春秋2009年4月号より



 人はロボットではない。あらかじめプログラミングされた動作を外部の刺激に対応して動かすだけの機械ではない。では人と機械とを分けるその違いはどこに由来するのか。それが村上氏の言う「魂の柔らかい部分」であると僕は考えている。
 人をして人たらしめるこの「魂の柔らかい部分」とはなんなのだろうか? 村上氏は引用した雑誌のインタビュー中で原理主義の問題に触れてこの言葉を使っている。原理主義とは村上氏の言葉でいえばシステムの一種だ。システムは人間を取り込み、支配し、人形に変えてしまう。彼はオウム真理教の信者について以下のように語る。


 彼らは自我をそっくりグルに譲り渡し、壁のなかに囲い込まれ、現実世界から隔離されて暮らしていました。そしてある日、サリンの入った袋を与えられ、地下鉄の中で突き刺してこいと命じられたときには、もう既に壁の外に抜け出せなくなっていたのです。そして気がついたときには人を殺して捕えられ、法廷で死刑を宣告され、独房の壁に囲まれて、いつ処刑されるかわからない身になっている。



 簡単に、よく言われる言葉で表現するなら、彼らは「自分の頭で考える力」を失ってしまったと言えるだろう。しかし、こう言ってみたところでなにもわかりはしない。そもそも、「自分の頭で考える」ことができる人間が、この世にどれだけいるというのだろう? 大抵の人間は、世の中に広く流通している言葉を自分の口でも言ってみているというだけのことで、自分独自の考え、自分独自の言葉を持っている人間など殆どいない。それでも多くの人間は大過なく社会生活を送ることができる。世間でどのような言葉が流通しようと、それで世界中の人間がサリンを使って人を殺すようになるわけもない。所詮「自分の頭で云々」という表現は表層しか捉えていない。こういった「非常識」の前ではまったく無力にも思えるが、「『常識』があればあんなことはしない」と言ったところで大差ないのである。

「常識」、この使い古されて現代では死語にでもなったかのように力を失ってしまった言葉。これが僕の考えでは「魂の柔らかい部分」である。
 小林秀雄の作品に『常識について』というものがある。小林秀雄によれば、「常識という言葉は、どうやら定義を拒絶しているようだ」。なぜ定義を拒絶しているのか、といえば常識があるカテゴリーに分類したり、静的に位置付けることができない「心の働き」だからである。そして、「この働きには、どうしても内から自得しなければ、解らぬものがある」。だから定義し難いのだ。「運動」を静止した写真から理解することはできないように、静的な知識ばかりの体系には「常識」はなかなか収まらないのである。
 逆に言えば、静的な知識の体系、言葉による厳格な定義に収まるものばかりでは、人は常識を欠くことになるということである。厳密に定義される言葉ばかりが持て囃され、静的な知識の体系が「真理」として尊重された近代という時代は、だから僕は一種の「狂気」の時代だったと思っている。20世紀という「理性」の大惨敗の歴史を振り返れば、近代とその思想が理性的で正しい時代だったなどと誰が言えるだろう。もっとも「理性的」で、最も壮大な静的な知識の体系を組み上げた共産主義が最も悲惨な大虐殺をやってのけたのは、決して偶然ではない。

 話を戻す。常識は心の働きであり、それゆえに定義し難い。小林秀雄は『常識について』のなかで、常識を儒教の「中庸」という言葉のことだとし、江戸時代の儒学者伊藤仁斎のこの言葉についての思考を辿ることでその定義し難い姿を明らかにしようとする。


 中庸は、彼(伊藤仁斎 引用者注)の言うように至徳には違いないが、日常生活上の認識と行動に関する知恵として、彼はこの言葉を使用したに違いないのである。



中庸とは、簡明に、「過不及ナク、平常行フベキノ道」と解して充分なのである。中庸という言葉は、学者達の手によって、「高遠隠微之説」の中に埋没して了ったが、本当は、何の事はない、諸君が皆持っている常識の事だ。



 ここで仁斎が着目しているのは、中庸とは単なる知ではなく、知の働きである、或は知を働かすその方法であるという事で、これが、仁斎の中庸に関する考えの根本になっています。


 中庸とは、知恵の働きであって、一定の知恵ではない。




 至難なのは、中庸の働きそのものの、勉強や知力で律する事の出来ぬその至易至簡な姿に還り、その自覚から離れぬ事である。



 今、世の中では、「自分の頭で考える力を身につけろ」と言う人間(こういう人間にこそ、世の中に広く流通している言葉を自分の口でも言ってみているだけという輩が多い)も、すでにできあがった知識を子供に教えこむことにばかり汲々とし、その知の働きを殺すようなことばかりをしている。この種の輩は教育者の名に値しない。全体主義国家の洗脳係あたりが天職というものだろう。


 出来上った知を貰う事が、学ぶ事ではないし、出来上った知を与える事が教える事でもなかろう。質問する意志が、疑う意志が第一なのだ。




 正しく質問しようと努める他に、何処に正しい知の働きを身につける道があろうか。




 人間に出来る事は、天与の知恵を働かせて、生活の為に、実在に正しく問う事だ。実在を解決する事ではない。正しい質問の形でしか、人間にふさわしい解答は得られはしない。



 常識こそが人を原理主義から守る本当の知恵である。20世紀の大敗北を人間が教訓とするのなら、「魂の柔らかい部分」、「常識」、「中庸」、言い方はどれでもいいが、静的な知識ではなく、知の働きにこそ目を向けなければならない。



MOLESKINE三冊目

2009/06/23 19:34
使っていたMOLESKINEとボールペンを昨日仲良く使い切った。MOLESKINEは残りが少なくなっているのに気づいた時点で新しいものを買っておいたので問題なかった。去年の六月から使いはじめて、これで三冊目ということになる。ただ、ボールペンの方は前に買った文房具屋に行くとなくなっていた。代わりになりそうなものを探したけれど、どれも太すぎたり色が違ったりで、これでいいというものがなかった。それでも手帳がある以上筆記具は必要で、しかたないからPILOTのSUPERプチとかいう名前のペンを買った。これは線が太過ぎるのが気になり、まだペンを探すのをやめられないでいる。
 そもそも僕は小さな文字を詰めて書くので、ペンは細い方がいい。太いペンは文字も大きく書かないといけないから嫌いなのだ。シャープペンシルなら細く書けるけど、シャープペンシルは今使っている太いペンよりも嫌いだ。
 いっそ安い極細の万年筆でも買った方がいいのかもしれない。




人類皆兄弟。だからこそ喧嘩する

2009/06/22 20:11
 20世紀は資本主義と共産主義の大喧嘩の世紀だったという側面があるが、この二つ、別にその根本から相反するもの同士というわけではない。代表的な共産主義国となったソ連と中国が元々貧しい国だったせいでわかりにくくなっているが、そもそも共産主義というのは資本主義がその最高点にまで到達した時に現れる資本主義の次の国家制度という位置付けだったのだ。マルクスは共産主義の最初の段階を、すでに経済的には資本主義の最高の段階より(ソ連が誕生した当時の基準で)高い地点に設定していた。
 資本主義すらままならなかった二つの国家が代表的な存在になったが故に一般的には(少なくとも日本では)わかりにくくなっているが、資本主義と共産主義は兄弟であり、資本主義という兄の後を、共産主義という弟が継ぐというのがマルクスの描いたシナリオだったのである。この意味で、この二つの社会制度、思想は近代という母が生んだ兄弟だ。
 おそらく現在まで続いていて最も根が深い喧嘩というのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の喧嘩だろう(これらは現実的な国家や社会の不安定が原因という面も多分にあるが)。これらの宗教も、間違いなく兄弟である。同じ唯一の神(呼び方はそれぞれ違う)を信仰しているという意味では資本主義と共産主義以上にわかりやすい兄弟である。
 そもそもキリスト教で言うところの『旧約聖書』を、キリスト教もイスラム教も認めている。ただ、ユダヤ教にとってこの本が唯一の聖書であるのに対し、キリスト教には『新約聖書』があり、イスラム教にはさらに『コーラン』がある。生まれた順に並べればユダヤ、キリスト、イスラムで、前の宗教は自分より後に出た宗教を認めない。ユダヤ教にとってキリスト教とイスラム教は嘘吐きであり、キリスト教にとってイスラム教は嘘吐きであるばかりでなく、イエス・キリストを神ではなく一預言者に過ぎないと言っており、二重の意味で許せない。ただ、キリスト教がユダヤ教(というかユダヤ人)を許せないのは、新約聖書に書かれているイエス・キリストの物語のなかに、イエス・キリストを死刑に追いこんだのはユダヤ人だとはっきり書かれているからだ。これが、ユダヤ人迫害の原因だろう。彼らは迫害によって金融の仕事ぐらいにしか就くことができなくなり、それが現代のユダヤ人による金融の支配になりアメリカは金融をユダヤ人に完全に握られているのだから、因果応報と言えなくもない。
 僕が無知なのかもしれないが、キリスト教と仏教が戦争をしたという話は寡聞にして知らない。「仏教による宗教戦争はない」というのが世界史における常識だと以前聞いたことがあるが、残念ながら日本では仏教宗派の対立による殺し合いというのはかなりあり、織田信長によって寺院の武装解除がなされるまで寺院というのは半ば暴力団も同然だったのだ。そして仏教同士仲良くするかといえば、むしろ仏教同士、殺し合っていた。だから、仏教なら喧嘩をしない、というわけでもないらしい。
 このように、永く続く対立、決定的な対立というのはしばしば兄弟の間で起きるものらしい。争うには接点が必要だ。赤の他人同士での接点は、長い目で見れば一時的なものに過ぎない。兄弟の間では、いわば生まれた時からすでに接点が、争いの種が互いのなかにあるようだ。
「人類皆兄弟」というが、それが正しければ、「人類皆敵同士」ということでもあるのだろう。




新しいブログをつくろうか……

2009/06/14 20:20
今までに載せてきたコンテンツの大半が随筆のような文章だったわけで、その中にたまにイラストや小説なんかが入ってきていた。最近はちょっと頭に血が上って政治のことも書き散らしていたけれど、こういう風にコンテンツがバラバラになるのはあまりよくないかな、と思えてきた。
 特に政治などは、それについて書きたいなら専用のブログなりなんなりをつくってそこで書くのがスジだろうと思う。イラストだって、正直ここに載せている大半の文章とはかなり毛色が違う。別の場所に載せた方が都合がいいだろう。
 それに、そろそろWordPressなどを自分のサーバに置いて一からブログを構築して運用したくなってきた。そっちの方が面白そうだ。
 ただ、ブログを無料サービスでなく自前で拵えるのは一言で言えばお金がかかるわけで、今現在は技術面よりもそちらで悩んでいる……。




Scribefireからの投稿テスト

2009/06/13 18:11
Firefoxの拡張機能Scribefireからの投稿のテスト




ラクガキ

2009/06/11 20:50
 普段手帳にこんなものばかり描いてる。

鏡音リンまんが01

クマ_01

タコさんウィンナーべルメエル式

ラクガキ

鏡音リン_01



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