下弦の月――For The Dying Moon――

日々胸のうちで生まれる「ざっそう」の墓場(「ざっそう」は、「雑草」、「雑想」、どちらでも。価値は大して変わらない)

MOLESKINE三冊目

2009/06/23 19:34
使っていたMOLESKINEとボールペンを昨日仲良く使い切った。MOLESKINEは残りが少なくなっているのに気づいた時点で新しいものを買っておいたので問題なかった。去年の六月から使いはじめて、これで三冊目ということになる。ただ、ボールペンの方は前に買った文房具屋に行くとなくなっていた。代わりになりそうなものを探したけれど、どれも太すぎたり色が違ったりで、これでいいというものがなかった。それでも手帳がある以上筆記具は必要で、しかたないからPILOTのSUPERプチとかいう名前のペンを買った。これは線が太過ぎるのが気になり、まだペンを探すのをやめられないでいる。
 そもそも僕は小さな文字を詰めて書くので、ペンは細い方がいい。太いペンは文字も大きく書かないといけないから嫌いなのだ。シャープペンシルなら細く書けるけど、シャープペンシルは今使っている太いペンよりも嫌いだ。
 いっそ安い極細の万年筆でも買った方がいいのかもしれない。




人類皆兄弟。だからこそ喧嘩する

2009/06/22 20:11
 20世紀は資本主義と共産主義の大喧嘩の世紀だったという側面があるが、この二つ、別にその根本から相反するもの同士というわけではない。代表的な共産主義国となったソ連と中国が元々貧しい国だったせいでわかりにくくなっているが、そもそも共産主義というのは資本主義がその最高点にまで到達した時に現れる資本主義の次の国家制度という位置付けだったのだ。マルクスは共産主義の最初の段階を、すでに経済的には資本主義の最高の段階より(ソ連が誕生した当時の基準で)高い地点に設定していた。
 資本主義すらままならなかった二つの国家が代表的な存在になったが故に一般的には(少なくとも日本では)わかりにくくなっているが、資本主義と共産主義は兄弟であり、資本主義という兄の後を、共産主義という弟が継ぐというのがマルクスの描いたシナリオだったのである。この意味で、この二つの社会制度、思想は近代という母が生んだ兄弟だ。
 おそらく現在まで続いていて最も根が深い喧嘩というのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の喧嘩だろう(これらは現実的な国家や社会の不安定が原因という面も多分にあるが)。これらの宗教も、間違いなく兄弟である。同じ唯一の神(呼び方はそれぞれ違う)を信仰しているという意味では資本主義と共産主義以上にわかりやすい兄弟である。
 そもそもキリスト教で言うところの『旧約聖書』を、キリスト教もイスラム教も認めている。ただ、ユダヤ教にとってこの本が唯一の聖書であるのに対し、キリスト教には『新約聖書』があり、イスラム教にはさらに『コーラン』がある。生まれた順に並べればユダヤ、キリスト、イスラムで、前の宗教は自分より後に出た宗教を認めない。ユダヤ教にとってキリスト教とイスラム教は嘘吐きであり、キリスト教にとってイスラム教は嘘吐きであるばかりでなく、イエス・キリストを神ではなく一預言者に過ぎないと言っており、二重の意味で許せない。ただ、キリスト教がユダヤ教(というかユダヤ人)を許せないのは、新約聖書に書かれているイエス・キリストの物語のなかに、イエス・キリストを死刑に追いこんだのはユダヤ人だとはっきり書かれているからだ。これが、ユダヤ人迫害の原因だろう。彼らは迫害によって金融の仕事ぐらいにしか就くことができなくなり、それが現代のユダヤ人による金融の支配になりアメリカは金融をユダヤ人に完全に握られているのだから、因果応報と言えなくもない。
 僕が無知なのかもしれないが、キリスト教と仏教が戦争をしたという話は寡聞にして知らない。「仏教による宗教戦争はない」というのが世界史における常識だと以前聞いたことがあるが、残念ながら日本では仏教宗派の対立による殺し合いというのはかなりあり、織田信長によって寺院の武装解除がなされるまで寺院というのは半ば暴力団も同然だったのだ。そして仏教同士仲良くするかといえば、むしろ仏教同士、殺し合っていた。だから、仏教なら喧嘩をしない、というわけでもないらしい。
 このように、永く続く対立、決定的な対立というのはしばしば兄弟の間で起きるものらしい。争うには接点が必要だ。赤の他人同士での接点は、長い目で見れば一時的なものに過ぎない。兄弟の間では、いわば生まれた時からすでに接点が、争いの種が互いのなかにあるようだ。
「人類皆兄弟」というが、それが正しければ、「人類皆敵同士」ということでもあるのだろう。




新しいブログをつくろうか……

2009/06/14 20:20
今までに載せてきたコンテンツの大半が随筆のような文章だったわけで、その中にたまにイラストや小説なんかが入ってきていた。最近はちょっと頭に血が上って政治のことも書き散らしていたけれど、こういう風にコンテンツがバラバラになるのはあまりよくないかな、と思えてきた。
 特に政治などは、それについて書きたいなら専用のブログなりなんなりをつくってそこで書くのがスジだろうと思う。イラストだって、正直ここに載せている大半の文章とはかなり毛色が違う。別の場所に載せた方が都合がいいだろう。
 それに、そろそろWordPressなどを自分のサーバに置いて一からブログを構築して運用したくなってきた。そっちの方が面白そうだ。
 ただ、ブログを無料サービスでなく自前で拵えるのは一言で言えばお金がかかるわけで、今現在は技術面よりもそちらで悩んでいる……。




Scribefireからの投稿テスト

2009/06/13 18:11
Firefoxの拡張機能Scribefireからの投稿のテスト




ラクガキ

2009/06/11 20:50
 普段手帳にこんなものばかり描いてる。

鏡音リンまんが01

クマ_01

タコさんウィンナーべルメエル式

ラクガキ

鏡音リン_01



結局民主党は日本がどんな国か理解してない

2009/06/03 19:00
 民主党の白眞勲氏が、外国人の地方参政権を求める集会で「日本は多民族国家を目指せ」と言ったそうだが、御自分の国は同じ民族同士でも仲良くできないくせに、他国によくこんなことを恥ずかしげもなく言えたものだ。
 日本悲観論を言う人間は民主党に限らず日本にはたくさんいるが、大体みんな錯乱している。日本が財政破綻するとか言っている人たちは、日本が世界中で国家として一番の金持ちだということを理解していないのだろうか? 日本が破綻するなら世界中の他の国はどうなる? 国が破綻するのは「金を外貨で外国に借りた場合だけ」だろう。国内向けの国債を円建てでいくら発行したって破綻するわけがない。国の借金を「国民一人何百万の借金」とか言っている人たちは、その借金の貸し手は誰だと思ってるのだろう? アメリカ人か? 中国人か? 日本人だろうに。
 今現在世界で一番強い国は日本なのである。アメリカも中国も経済で心中することになる。韓国は言うまでもない。ヨーロッパも金融で経済を回してたから今回の経済危機で致命傷といっていいダメージを受けた。いわゆる「失われた10年」を経験した日本だけが、今回の金融危機で一番傷が浅かった。さらに、自動車ならハイブリットカー、エネルギーは太陽光発電と、日本はこれから需要が高まっていくであろう技術を他国を大きくリードする形で持っている。これで日本がどうにかなると思う人はもう単に自分の願望を叫んでいるに過ぎない。
 アメリカも中国も強大な軍事力を持っているし、北朝鮮もミサイルを飛ばしたりしている。が、軍事力で他人を支配できたとしても、勝者になることは絶対にできない。玉座にしがみつく惨めな負け犬になるだけだ。日本が日本であり、日本人が日本人である限り、自称世界の警察の軍事大国や自国内の少数民族を虐殺し続ける独裁国家、自国民がどれだけ餓死しようとミサイルや核の開発を続けるテロ国家などが勝つことは絶対にあり得ない。
 ただ、どんなに強かろうと、自分の強さ、弱さを自覚していないならいずれ負けることになる。日本の場合、その強みは潤沢な資源を有する国土だったり地政学的な優位だったりするわけではない。日本人こそが、その精神性、文化こそが日本の強みでありそれ以外にはない。多民族国家というのはアメリカのように最初空っぽだった場所(彼ら自身が武器を使って空っぽにしたわけだが)にてんでバラバラな人々が一つの理念を共有して入っていったからそれなりに成功したのであり、普通は多民族国家なんて目指すべきものじゃないし、やればわかるがけっこうな確率で破綻する。隣の中国を見ればいい。たくさんの民族を抱えているが、円満な関係とは言い難い、おそらく共産党の独裁が終わったらすぐにいくつもの国が独立を宣言するだろう。共産党はそれを防ぎたいから、民族浄化と言う虐殺を行い、「中華民族」などという言葉で多民族国家であるはずの自国内の国民を単一民族として纏めようとしている。
 多民族国家という形態が日本に合わないばかりか、民族としての個性を十分に有している民族同士が一つの国のなかに囲われてしまうと、大変な問題を引き起こすことになる。
 口ではどんなことを言っていようと、世界中の誰もが、「一国家一民族」というものを理想と考えているのだ。さらに言えば、日本が多民族国家になった場合、それは日本民族に対する中国と韓国の寄生という形になるだろうことも明らかだ。白眞勲氏もそれを狙っているのだろう。なにしろ、韓国人であることを辞めないままに日本の政治家になっているくらいだ。初めから日本のために働く気などないのだ。国籍条項がないことをいいことに民主党にはこういう類の政治家がたくさん入っている。結局の所、民主党は日本の強み、弱みというものをまるで理解していないのだ。所詮「政権交代」のためだけの寄せ集めだから、自分たちの政策の結果国が滅ぼうと気にしないのだ。まぁ、その民主党もそろそろ内部で分裂が起きはじめているようだし、その内解党してしまうかな? その前に選挙が来てしまうかもしれないが。



HTMLで縦書き 第2回

2009/05/24 16:53
 以前にHTMLで縦書き表現ができないか試したことがあったが、それの表示が大分綺麗になったので改めてサンプルを公開してみる。下の画像をクリックすると見られるはず。

縦書きテストスクリーンショット

 やってることは非常に簡単で、あまりカッコいい方法ではない。が、一応見られる程度にはなった。
 ソースを見ればわかるが自分でタグをつけていくとかなり面倒なことになる。なのでタグづけ用のVimスクリプトを書いて、それに任せている。



けっこう遅れてるけど、「小沢代表が辞任しましたね」

2009/05/17 20:14
今日の一言:おばあちゃんが子供に会うと、必ず「いいねぇ」、「よかったねぇ」って言ってる気がする。なにか買ってもらった時とか、どこか連れていってもらったときとか。

 すっかり放置していて、一時はアクセス数も一日一人二人といったところだったのに、どういうわけか最近は更新もしてないのに一日六人くらい来たりするようになっていた。「最近民主党がごたごたしてるから、それでじゃない?」と言われたが、民主党についてそんなにつっこんだことを書いた覚えはない。つっこんだことを書き始めれば民主党だけでは済まないし、それならもっと詳しく書ける人がいくらでもいるし実際その人たちが書いているから僕は書いていないのだ。

 ただ、元々自民党にいて、古い自民党の金権体質を色濃く受け継いでいる小沢一郎に、どうしてマスメディアは革命家の夢を見ていたのかまったく理解できないのははっきり書いておく。まぁ、途中で小沢批判が強まったのは、結局メディアは政権交代ができればそれでいいわけで、小沢氏自身が総理になろうが落ちぶれようがどっちでもいいということなのだと思う。そもそも、小沢氏も鳩山氏も、90年代、つまり前世紀にすでに一度政権交代をやったはずだが、二人ともその時の記憶はすっかりなくなってしまったのだろうか?
 鳩山由紀夫新民主党代表が小沢元民主党代表の傀儡なのも、まともな思考回路の持ち主ならせめて疑うくらいはして当然だと思う。そもそも、小沢氏と一蓮托生、彼が辞める時は自分も辞めるとまで言っていたのにヌケヌケと代表の座に座っているその神経を疑う気はないのだろうか?
 鳩山氏が選出された代表選において、投票権は現職の国会議員のみに与えたが、民主党は自身のホームページに、「サポーターは、代表選挙で投票することができます」と明記しているにも関わらず、「前例に従って」サポーターに投票権を与えなかった。会費(年間2000円)まで取っておいてこれである。(こちらのページの「サポーターとは?」に書いてある。民主党 web-site 党員・サポーター・ボランティア)
 先の参院選において民主党は農政において魅力的な公約を掲げ農家からの多数の票を獲得したが、いざ審議に入ると突っ込み所満載の実現可能性が非常に低い案で、結局自分で公約を否定するようなことまで言う始末だったことも忘れてはならない。民主党が掲げる公約の国民にとって嬉しい部分は大部分がいい加減なもので実現できない可能性が高い。(詳しくはこちらを参照株式日記と経済展望 民主党は「戸別所得補償」を公約に掲げ、民主党は農民を騙して票を取ったのだ。)

 別に自民党支持というわけではないけど、野党が民主党も含めて驚異的に駄目なので政権交代を支持できない。それが僕の結論。まぁ、僕がたまに書く政治の話なんかより、『博士の独り言』や『新世紀のビッグブラザーへ blog』でも読んでいた方がずっといいと思う。



サニエルパンツっていうんだね、やっとわかった

2009/04/22 21:14
 半ズボンというには長過ぎ、かといって長ズボンというには短いあのズボン。どうもサニエルパンツというらしい。すごく気になるというほどでもなかったけれど、なんとなく名前がわからないせいで落ち着かなかった問題が一つ解決した(服が好きというわけでもないのに服の名前がわからないとなぜか気になるのだ)。
 で、忘れないようにイラストと一緒にメモしておいた。
サニエルパンツ_01
サニエルパンツ_02


 おまけ。僕の手帳はこんな風にラクガキも多い。学校のノートにはあまりラクガキしなかったのだけど。
おまけ



言葉が掴まえるもの

2009/04/22 19:04
 この間母親と一緒に自転車に乗っている小学生くらいの女の子とすれ違った際、その子がある通りの名前を言っているのが聞こえた。それはすぐ近くの通りの名前だと、聞いてみれば自分にもわかったのだけど、そんな名前は今まで意識したこともなかった。それで改めて、自分が場所の名前というのをまったく覚えない人間なのだと思った。
 まぁ、地理に関しては一度自分で行った場所に関してはゲームの3Dマップみたいに頭のなかに映像が入っているから困ったことはないのだけど、名前というのはしばしば、こういう丸ごと覚える手間を省くためにも役に立つのではないかと思ったりした。
 しゃべりだすとベラベラといつまでもしゃべり続け、書きだせば長々と書き散らすような人間である僕として、時折言葉の他の表現媒体に対する優位とはなんだろう、ということを考える。映画みたいに映像と音の両方が使える媒体があるのなら、小説みたいな表現媒体なんていらないんじゃないあろうか、と。イタロ・カルヴィーノは文学固有の使命というものを確信していたようだけど、僕はまだ確信できるほどではないので考えてしまう。
 人間には、たとえば感動した際に、それをいつまでも忘れないようにしたいという欲求が生まれる。こういう欲求に応えるために、今なら写真やビデオみたいなものがあるけれど、こういったものはいわば僕が地理を覚えるときにそうしているようにそれを丸ごと記録しているわけだが、地理を覚える場合と違う点が一つある。それはこの場合人が記録しておきたいのは自分のなかの情動であってそれを引き起こしたものではないということだ。たとえば、なにか非常に大切な真理を悟ったとして、それを忘れないようにするためには人の場合は言葉に頼るしかない。感動もそうだが、こういったものは放っておくとすぐにどこかへと逃げてしまうのだ。いわば、言葉はそういった逃げていってしまうものたちを掴まえる道具といえる。そして、これだけは言葉にしかできないことだ。
 たとえば、子供の頃に見てとても感動したなにか。遊園地のヒーローショーでもいいし、遠足で登った山の風景でもいい。そういったものは、大人になってから同じものを見ても、同じ感動は得られないことが多い。もっと身近なところでいえば、初めて見たときはとても感動した映画が、二度三度と見るうちに色褪せて見えるようになるということはよくあるだろう。
 つまり、人間の内面の動きを記録するには、それを引き起こしたものそのものを保存しておいても意味がないのだ。
 言葉だけが人の心を形にして、保存する可能性を持っている。



定額給付金を例にとったkotobankの微妙さ

2009/04/22 18:58
 朝日新聞社、朝日新聞出版、講談社、小学館、ECナビの5社は、用語解説サイト「kotobank(コトバンク)」を開設した。「デジタル大辞泉」や「知恵蔵2009」など44辞書、約43万語の用語解説を無料で検索・閲覧できる。
(http://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/25634.html?ref=rssより)

 朝日新聞が絡んでいる時点で嫌な予感しかしなかったが、やはり偏った解説が散見する微妙な辞書ができているようだ。定額給付金がアクセスランキングの上位になっていたので、これを例にして話をするが、同サイトの説明では、否定的な部分ばかりが目立ち、肯定的な要素があるにも関わらずそれは無視されている。これなら、みんなきとんとした情報を得るために検索サービスで検索して色々なサイトを見て調べるのではないかと思う。
 定額給付金は、アメリカ、オーストラリア、台湾、イギリスなどなどの国も実施しているし、経済協力開発機構経済局シニアエコノミストのランダル・ジョーンズという人は日本の定額給付金を「恐らく即効性がある最も有効な措置」と評価している(http://charge.biz.yahoo.co.jp/vip/news/jij/081125/081125_mbiz055.htmlより)。
 他にも


 3月中旬にも支給が始まる定額給付金について、消費者の約6割が買い物やレジャーなどの消費に使うと考えていることが日本経済新聞社のインターネット調査でわかった。銀行口座への振り込み方式で支給されるにもかかわらず、「貯蓄・ローン返済など」に回す人は約3割にとどまる。


 という日経ネットの調査結果もある。2兆円の6割、つまり1兆2千億円が消費に回されることになるが、これはまったく無意味なのだろうか。世の中には色んな人間がいるし、立場の違いに関係なく意見の異なる場合は当然あるだろうけれど、辞書としての役割を担うつもりなら、肯定的な意見と否定的な意見の両論併記は当然ではないだろうか。

ちなみに、麻生総理の経済政策のうち、定額給付金は全体の75兆円のうちの2兆円でしかない。その他の政策が駄目なら、やっぱりマスメディアの言うとおり麻生総理は駄目ということになるのだろうけれど、少なくとも以下のような事実はある。


 細田博之幹事長は3日、役員連絡会終了後、国会内で定例記者会見を行い、会議の内容を説明した。このうち、昨日の役員会で麻生太郎総裁から世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)の成果について発言があったことが報告された。1月31日、スイスで開かれた同会議に出席した麻生太郎総裁(総理)は「私の処方箋〜世界経済復活に向けて〜」と題して講演。世界的な経済危機に直面している中で、「世界第2位の日本経済が活力を取り戻すことが、何よりも日本の責務だ」と訴え、麻生内閣が打ち出した総額約75兆円の景気対策について、各国のリーダーから高い評価を受けた。一方、国内では第2次補正予算が成立したものの、参院では野党の抵抗で関連法案が全く審議されない状態が続いており、出席した役員からは「第2次補正予算、平成21年度予算と非常に効果があるものを提出しているのに、国民の理解が十分でなない」として、政府・与党一体となって国民への説明に努めるべきだとの意見があった。
(http://www.jimin.jp/jimin/daily/09_02/03/210203a.shtmlより)


 多分、kotobankはすぐ潰れるか、生き残っても主流には決してならないだろう。みんなこれまで通りwikipediaを使うはずだ。kotobankはwikipediaは記事の信頼性に問題があると言っているが、同じようなことを言ってGoogleがknolという百科事典サービスをつくったが、テストを始めてからずいぶん経ったが、すっかり話を聞かなくなっている。



『人はなぜ戦争をするのか』

2009/04/02 22:42
 別に北朝鮮がミサイル発射をしようとしてるからではないけどフロイトの『人はなぜ戦争をするのか』という本を読みはじめた。まだ本当に最初のところしか読んでいないけど、人間の歴史についての語り方が実にフロイトらしい。良く言えば理解しやすいが、はっきり言えばある種のファンタジーだ。どこの誰の歴史でもない。『トーテムとタブー』ではこれで通用したけど『モーセと一神教』では自身で認めているように破綻している。
 まぁ、フロイトの人間観、歴史観というのが極めて特異であり極端だから、これは当たり前だ。そのおかげで見えるものもあるということで、僕もフロイトを一概に否定するわけではない。そもそも、読む価値がないと思ってるなら読んだりしない。

 フロイトが書いているが、「征服によって生みだされた状態は、原則として長続きしない」。これは、過去に僕も何度か書いているが、銃剣によって玉座につくことはできるが、銃剣によって玉座に座り続けることはできないということだ。だから、フロイトは戦争によってより大きな統一が生まれ、強力な支配権が確立されることで平和が生まれる可能性を認めつつも、実際にはそううまくはいっていないと言っている。
 僕はよく中国に対して悪口を言うけど、それはそもそも中国には銃剣で玉座についた政権しか歴史上存在せず、また銃剣によって玉座に座り続ける以外の方法をとった政権も存在しないからだ。これは現在までそうであることは見ればわかる。
 そもそも中国の歴史は一民族の歴史でもないし、王朝にも先の王朝を新王朝が倒したということ以外に連続性はない(というより、戦争によって入れ替わったということが連続性の否定か)。中国の歴史は、いわば「中華思想」という病にかかった国々の歴史である。先の中国を倒すことによって、つまり銃剣によって玉座に座ることにより、自分もまた銃剣によって玉座に座り続けなくてはならなくなる。自分がその座にい続けるためには、生き残るためには、銃剣以外に頼れるものがないからだ。
 日本人は共存という言葉が好きなようだが、土台のない共存、融和はかえって不幸を呼ぶだけである。闘争を生むだけである。
 よく平和団体などは権力について語るけれど、人類が戦争をなくせないのは権力の問題ではない。関係がない、というわけではないが、本質は土台にある。そしてその土台は権力よりも人間の根本に近いところにあり、それだけに解決が難しい。
 はっきりしているのは、今だかつて世界が一つになったことなどなく、そして未来永劫ないだろうし僕はあってほしくもないと思っている。一つにならない世界で、どのように「一」を求める闘争の問題を解決するか。そのために僕は「差異を強調するコミュニケーション」というものを提案するのだ。むやみに同一性を強調し、差異から目を逸らすべきではない。そのような欺瞞から生まれる共存、融和が暴力の温床となる。自分と他人の差異が理解できれば、適切な距離感というものも自ずとわかるのではないだろうか。







差異をなくしていくのではなく、差異を際立たせる、差異を強調するコミュニケーションを

2009/03/28 14:02
 イタリアの作家、イタロ・カルヴィーノは『カルヴィーノの文学講義 新たな千年紀のための六つのメモ』という本のなかでこう言っている。


今日、私が推薦したいと思っている価値はまさにこのことなのです。つまり、今日のように高速の、しかもきわめて広範囲に伝達可能なその他のメディアが力を得て、いっさいのコミュニケーションを画一的で同質の外見のもとに平板なものに見せてしまうおそれのある時代においては、文学の機能は書記言語の固有の使命にしたがって、異なるもの同士の、まさにその差異を薄めたりすることのない、それどころか差異を強調し、差異を土台におくコミュニケーションであるということです。


 これは1980年代の講義だが、今でもまったく価値を失なってはいないと僕は思う。「フラット化する世界」などと言われている現代という時代に対して、本当に価値のある批判だと思う。
 差異を薄めること、差異をなくしてしまうこと。これは現代に生きている人々が少なからず気づいているであろうことだが、間違いなく「暴力」である。日本の戦後統治やイラク戦争などに見えるアメリカの自国の価値観の押しつけや、中国のチベットに対する「民族浄化」。これらの差異をなくそうとする行為に暴力性を感じない人間はいないだろう。暴力も、相手に対するメッセージ性があるという意味ではコミュニケーションの一種である。
 毎日のように僕らを襲う濁流のような情報もまた一種の暴力であり、これらは人をして画一的に、情報の車輪によって平坦に踏みならしてしまう。
 今ほど世界が暴力で満ちている時代はない。単純な軍事力の行使ではなく、コミュニケーションの全域にわたって、暴力が蔓延している。人間には一応暴力的解決ではなく話し合いによる解決という手段があるのだが、それも消滅しようとしている。
 世界は無自覚に一つになろうとしている。「一」になるための闘争を繰り広げている。差異を土台におくコミュニケーションは、事実上不可能になっている。これこそが本当に「野蛮」というべきものだ。
 野蛮人はジャングルの奥地になどいない。僕らこそが「野蛮人」であり、自覚がない狂人なのだ。病人、狂人は常に少数派だ。なぜならそれらの定義が「多数派から見た異常者」というものだからだ。仮に、この世界の人類すべてが狂気に陥いっていても、僕らは狂人と呼ばれることはない。そのように呼ぶ者こそが狂人とされるだろう。

 差異を薄めようとすること、差異をなくそうとすること、これが暴力であり、狂気と野蛮への道だ。差異を強調し、差異を土台にしたコミュニケーションの道は、ただ言葉によってのみなされる。相手の声をかき消し、大勢の声は少数の声よりも正しいとするような野蛮な言葉ではなく、静かに、その言葉の土台となる文化を正しく反映した言葉によってのみそのようなコミュニケーションは可能となる。
 近代とは上に述べたような狂気が支配した時代であり、そのなかで生まれた思想によって世界を一つにできるなどと考えるのは未だ自らの狂気を自覚することができない「野蛮人」の言である。
 「平和」だなんだと言うのなら、まず人は自分自身の心を見るべきではないだろうか。自らの狂気を自覚すべきではないだろうか。



人はなぜ比喩を使うのか

2009/03/22 10:24
 人間がなんで比喩を使うと思う? 人生にへばりついてる邪魔な『重さ』を引き剥がして、真実を取り出したいからだ。泥で汚れた綺麗な布を、川の水で洗うように。


 −−人は人生というもっとも重い表現で書かれた文学を常に読まされている。人生はこの世でもっとも重い表現であり、小説や詩などは人生に対立するように軽さを志向する。
 人の歴史というのは泥沼に落ちた鳥がなんとか空に帰ろうとする、重さからの解放の歴史なのかもしれない。



ラグビーボールは人生だ

2009/03/22 10:17
ラグビーボールは人生だ。なぜなら、どこに跳ねるかわからない−−なんてね。


 −−この要領で身の回りのあらゆるもので人生を語れそうな気がする。



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